城のある風景 - 江戸城と共に造られた武蔵国の要


さいたま市岩槻区は、江戸時代の寛永年間以来、人形で知られた伝統の町です。日光御成街道の宿場町でもあった岩槻はもともと、太田道灌と父道真がひらいた岩槻城の城下町でした。

岩槻城は、1457(長禄元)年に造られたと言われ、完成の年は江戸城と同じです。江戸城も道灌が父の協力を得て築城したと言われ、この二つの城に加えて、北に川越城を配した太田氏の備えは、鉄壁の構えと言われました。

岩槻城は、元荒川を東に配し、南北に干潟と丘陵を望む位置に造られました。武蔵国は低湿地でしたから、岩槻に忽然と姿を現した城は、その地に浮かぶ浮城とも呼ばれました。

岩槻城は、太田氏の衰退と共に持ち主が替わり、結局、北条氏のものとなりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の時に浅野長政軍に攻められて落城、更に徳川家康の関東入りと共に、その勢力下に入りました。城は、1609(慶長14)年 に焼けましたが、家康は、江戸の守りに欠かせぬ拠点として再建、この後、徳川幕府の老中幕閣が次々に入城してこの地を治めました。

寛永年間、日光東照宮が造営されましたが、それに携わった工人の一部が、御成街道筋のこの地に落ちつき、人形作りを始めました。それ以来、雛人形作りが岩槻藩の重要な産業となり、藩財政を支えました。その伝統が脈々と引き継がれ、今では、雛人形を始め、武者・木目込・御所などさまざまな種類の人形が作られ、生産体制も、人形の部分作りの専門家による分業体制がとられています。

岩槻の今に至る繁栄の途は、元をたどれば太田道真・道灌父子の先見の明に基づくものであったといえるでしょう。その礎となった城の跡は、今、公園となって、歴史を秘めた四季の美しさを見せています。

※近年、岩槻城に関しては、忍城主・成田親泰の祖父にあたる成田資員が築城したとする説を始め、いくつか異説が出ており、築城者と築城年についてははっきりしていません。

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