城のある風景 - 興亡150余年の山城の石組み
城というと、とかく平地にある城を思い浮かべがちです。しかし、平地に城が築かれるようになったのは、織田信長や豊臣秀吉から後のことで、それ以前は山城が主流でした。
城は、もともと戦いに備えたものですから、守り易くて、攻めにくい所に造られ、天然の要害が利用されました。兵庫県朝来市和田山町にある竹田城跡も、代表的な中世の山城の跡と言われ、標高353mの古城山の山項にあります。
竹田城は、全体の形が虎の伏した姿に似ていると言われ、虎臥城と呼ばれていたといいます。城が造られたのは、1443(嘉吉3)年のことで、13年の年月をかけて、山名宗全が築いたと言われています。
山名宗全は、その頃の守護職で、但馬・備後・安芸・伊賀を治めていました。虎臥城の名は、あるいは宗全の勢威をそれとなく暗示した呼び名だったかもしれません。
竹田城には、山名氏の家臣・太田垣光景を配して、但馬の守りが固められましたが、応仁の大乱の後、肝心の山名氏が衰退してしまい、竹田城の太田垣氏らは勢いを増して自立しました。世は戦国、織田信長の上洛を機に、この地域の形勢はあわただしく動きます。
1577(天正5)年、信長軍の中国征伐が開始されます。10月、山陽道の総大将として羽柴秀吉が播磨に入り、但馬の竹田城は兵糧攻めをかけられました。威力を誇ったさしもの山城も落城、その後、播磨の龍野城主・赤松広英に預けられましたが、1600(慶長5)年、広英が因幡攻略の失敗で自刃、城も廃城となりました。
築城後150余年、城主はいずれも不運でしたが、山城としての竹田城の見事なイメージはそのまま残りました。今も、大手門、城櫓、天主台、北千畳、南千畳などの石組みが、整然と昔の面影を伝え、鳥が翼を広げたような威容を見せています。戦国の世の輿亡を偲ばせる山城の跡は、城が確かに戦いの拠点だったことを、思い起こさせずにはおきません。
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