城のある風景 - 歴史尊ぶ土地の堅牢な浮城
諏訪市は、諏訪3万石の城下町で、城主の居城・高島城は「諏訪の殿様よい城持ちやる、うしろ松原前は湖」と歌われ、小藩には過ぎた名城と言われました。
高島城は、日根野高吉が築いたと言われ、1598(慶長3)年に完成しました。城は、諏訪湖の南岸に出来た中州のような地に、6年の歳月をかけて造られ、石垣などの石材は、舟で湖上を運ばれたといいます。
築城当時、城は湖に突き出た形になっていて、湖水が石垣を洗い、城へは人工の道を渡るしかなく、浮城と呼ばれていました。平城ながら攻めにくく、小ぶりの名城と言われていました。
城が出来て4年後、日根野氏は関ケ原合戦の戦後処理で、今の栃木県壬生町に移り、高島城には諏訪氏が入りました。
諏訪氏は、その名でも分かるように、もともとこの地の領主で、高島城の原型も諏訪氏が造った出城だったと言われます。この後、3万石余の藩として続きましたが、明治になって、佐幕派と見られたため、城は石垣と堀を残して取り壊されてしまいました。
1864(元治元)年3月、水戸の尊皇攘夷派天狗党が挙兵し、中仙道を通って大挙上洛するという騒ぎになりました。危険分子を通すわけにはいかないということで、諏訪藩は藩兵を出して迎え撃ちましたが、負けてしまいます。藩兵は城に籠もって門を閉ざし、襲撃に備えましたが、何事もなく、水戸の急進派は立ち去ってしまいました。それでもこのことが禍いして、諏訪藩は幕府側と見られてしまったといいます。
その後、城は川砂で埋まり、湖の趣きも変わって浮城の面影はなくなりましたが、1970(昭和45)年春、城跡に3層の天守と2層の隅櫓が再興され、城跡は公園となりました。
冬の諏訪湖は、湖面の結氷に亀裂が走る御神渡り神事で有名で、その記録が1443(嘉吉3)年以来保存されてきました。城跡は、そんな歴史を尊ぶ土地柄をも伝えているかのようです。
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