城のある風景 - 新城にかけた藩祖の悲願
弘前城の天守閣は、もともとは5層で、本丸の西南の隅にあったと言われます。1627(寛永4)年秋、その天守閣の鯱に落雷、それがもとで、中に積んであった火薬が爆発し、天守閣は焼失してしまいました。今の3層の天守は、1810(文化7)年に、隅櫓を改造したものだといいます。
弘前城は南北に長く、東西に短い長方形の城で、三重の濠をめぐらし、西の岩木川、東の土淵川を天然の要害として利用していました。5層の天守閣は、西濠となる岩木川を見下ろし、津経のシンボル岩木山と向かい合っていました。津軽なら、岩木山はどこからでもよく見えます。その山と睨み合っているような天守閣は、まこと、この地の支配者の威風を示すものだったでしょう。
もともと、弘前には城などありませんでした。戦国時代の終わり頃、津軽地方の武将だった大浦為信が、およそ20年かけて、この地域を南部氏から攻め取り、豊臣秀吉の承認も取り付けてしまいます。為信は、独立してから津軽氏を名乗り、古城の堀越城を足場にしていました。
やがて、関ケ原の戦いが起こります。一代かけて手中にした津軽惣領主の地位は、守らなければなりません。為信は長子信建を豊臣方につけ、自らと次子信枚は徳川方に従いましたが、豊臣に賭けた家臣団の一部は、堀越城で反乱を起こします。津軽も天下分け目だったのです。
合戦後、惣領主の地位は信建が引き継ぎましたが、為信はなお実権を握り、堀越城からおよそ6km北西の地に、新城を築く計画を打ち出します。体制刷新の総仕上げでした。
計画から4年後の秋、信建は病没、為信も去り、結局、信枚が築城を成し遂げ、1611(慶長16)年、新城へ移りました。天守を山と向かい合わせたのは、あるいは、信枚の鎮魂の思いもあったのかもしれません。
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