城のある風景 - 天守を傾けた農民の睨み
遠くに北アルプスを望む松本は、その昔、深志と呼ばれていました。鳥羽川を挟んで、北側が北深志、南は南深志といい、この川を外掘にして松本城が造られました。そして、南に武家屋敷、北には町家が配置されました。
深志を松本と呼び改めたのは、1582(天正10)年にここへ入った小笠原貞慶で、小笠原氏は、室町時代の初めから信濃守護でしたから、いわば旧領を回復したわけです。その8年後、小笠原氏は下総古河3万石に移封され、松本へは石川氏が入って来ました。
今の松本城を築いたのは、その石川氏で、5重6階の大天守の北側に3重4階の小天守を配し、連結複合式の天守閣が完成したのは、1597(慶長2)年頃ではなかったか、と言われます。
その後、徳川将軍家と縁の深い者たちが松本城の主となり、3代将軍家光の頃には、堀田氏の後を受けて、水野氏が松本藩7万石の領主となりました。松本藩の年貢は、ほぼ五公五民で、収量の5割を上納するようになっていましたが、水野忠直の代になると財政が苦しくなり、徴税を強化しました。
1686(貞享3)年10月、厳しい年貢に耐えきれなくなって、農民たちがなんとかしてほしいと願い出ました。領内ほぼ全村の代表者たちが参加して、総勢1700人の農民が松本城へ押し寄せました。一部の者は城下の御用商人を襲撃し、幕府にも訴えると気勢をあげました。
藩は、家老連名で、要求を認める文書を出しましたが、農民たちが引き上げると態度をひるがえしました。11月になると一揆の中心となっていた中萱村(現・安曇野市三郷中萱)の多田嘉助ら36人を逮捕しました。8人は磔刑、20人が獄門、8人は追放という刑でした。
磔刑に処された嘉助は、磔台上で恨みの城をはったと睨みつけ、その睨みの力で、城の天守はやや傾いた、という伝承が残りました。磔刑の時に地震が起きたのだともいいます。北アルプスが雪に覆われていた季節の出来事でした。
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