城のある風景 - 今に示す松浦党の誇り
平戸の城は、海を外濠に見立てています。つまり海からの敵を想定した備えをとっており、海の覇者松浦氏ならではの城構えになっています。
松浦党は、鎌倉・室町時代にかけて肥前松浦4郡に割拠していた武士団で、松浦源氏が中心となっていました。平戸の松浦氏は、その松浦党の一族で、平戸藩初代の松浦鎮信は、秀吉の信頼が厚かったといいます。しかし、やがてこれが、災いの遠因となりました。
関ケ原の戦いが起こると、鎮信は、長子の久信を豊臣方に従わせ、自らは徳川方につきました。合戦後、久信は、世が徳川に傾くのを見通し、自害して一族の安泰を図りました。父鎮信の衝撃は大きいものでした。関ケ原の合戦で一族が東西に分かれたのは、あちこちであったことですが、その状況に自害という形で始末をつけるところが、松浦党の激しさなのでしょう。
平戸は、16世紀の半ば頃からポルトガル船との交易を進め、財政的にはゆとりがありました。鎮信は、その財力を背景に、1599(慶長4)年から、今の平戸城がある場所に城を築き始めました。14年かかって、ようやく城が完成しようという時に、鎮信は、その城を焼き払います。大坂冬の陣が迫っていた頃で、家康に忠誠心を疑われたからだと言われています。長子の自殺という犠牲まで払って守り抜いた所領、何としてでも守り切ってやるという気迫が伝わります。
その後、平戸藩は城を持たぬまま過ぎましたが、鎮信が城を焼いてからおよそ100年後、1718(享保3)年、同じ場所に城を造ってしまいます。鎮信と同じように14年の歳月をかけ、焼いた城と同じものを造りました。松浦党の意志と情念の凄さと言えるでしょうか。
1962(昭和37)年、突き出た岬に3層5階の天守閣が復元されました。松浦党の誇り高さはそのままに、天守は海を睨みつけているようです。
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