城のある風景 - 季節に散る花、咲き競う花


チューリップは富山の県花で、戦後に復元された富山城の天守閣とも、見事な調和を見せます。この花は、オランダで改良が進み、日本へは幕末に入ったと言われます。栽培が盛んになったのは、明治の後半だそうですから、江戸時代の富山の殿様は、当然ながらこの花のことなど知る由もありません。

富山藩は、徳川3代将軍家光の時代に、雄藩金沢藩の支藩として独立。1660(万治3)年、富山城が整備され、藩主の居城となりました。ですが、歴史の中の登場人物たちの選択が少し違っていれば、この城の主は、あるいは別の人物になっていたかもしれません。

人の命運はどこで分かれるか分かりません。昨日までは旭日昇天の勢いでも、今日は、孤城落日、余命いくばくもなし、ということになったりもします。戦国大名の盛衰が今でも話題になるのは、その恰好の事例だからでしょう。

織田信長に仕えた武将も、信長死後にのし上がって来た秀吉への対応によって、明暗の途を分けました。佐々成政もそんな武将の一人で、朝倉討ちや石山本願寺の一向一揆攻めなどに功のあった彼は、1581(天正9)年に越中富山を与えられ、富山城へ入りました。彼は城を整えて上杉勢と戦い、そのままなら、この地に武威を誇っていられました。ところがその翌年、本能寺の変で信長が急死してしまいます。

成政は、徳川家康や織田信雄と組んで秀吉と対抗、秀吉の側に立った前田利家の軍勢と戦う羽目に陥ります。これが衰運のきっかけで、結局は秀吉に切腹させられて一生を終わります。

一方、利家。朝倉討ちでは共に協力し合った仲の成政を攻め、成政が降伏した後は、その領地を手中にし、豊臣五大老の一人となって、子の利長は百万石を超す大大名、その孫が富山藩主として独立することになります。

散る花の後に見事な花が咲く。富山の城は、そんなことを語りかけているのかもしれません。

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