城のある風景 - 開国の大老を偲ぶ天守閣
彦根市は古くから開けた滋賀県東部の中心都市ですが、かつて明治の薩長藩閥政府からは、国賊の町として卑しめられたといいます。安政年間、強い指導力を発揮した大老・井伊直弼は、彦根藩主でもありました。
直弼が、大老として幕閣の最上位に列したのは、1858(安政5)年4月のことでした。その後、彼の強力なリーダーシップで日米修好通商条約が結ばれます。直弼を問責した水戸の徳川斉昭は謹慎を命ぜられ、その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で同じような条約が結ばれて、日本は開国の途を歩み出します。
尊皇攘夷派に対する大弾圧が始まったのは、その直後のことでした。
井伊家が居城としていた彦根城は、もともと、京都の抑えとして幕府が重要視した拠点でした。城の工事は、1603(慶長8)年から始まり、06年には高さ約24mの3層の天守閣が完成しました。上が狭く、下が曲線状に広がる花頭窓を持った、破風白壁の優美な天守でした。
築城に当たっては、周辺の寺院跡や古城から石が運ばれ、大津城や小谷城、長浜城を壊して用材が持ち込まれました。重要拠点づくりということで、7カ国12大名が協力して普請に当たったといいます。
城域およそ250万平方mに及ぶ工事は、ほぼ20年の歳月をかけて行われ、広い三重の堀、堅牢な高い石垣を誇る彦根城が完成、徳川譜代大名の筆頭井伊氏が治めることとなります。
直弼は、1850(嘉永3)年、病弱で死亡した兄の後を継いで、13代藩主となりましたが、運命の歯車が別に回っていたら、外濠のほとりの埋木舎で、静かな生涯を送ったのかもしれません。しかし、時代はこの人を求めたのでしょう。1860(万延元)年3月、直弼は水戸藩士に襲われ、雪を血に染め、逝きました。まだ46歳でした。
※実は、彦根城の築城には、我が家の先祖も関わっています。徳川四天王の筆頭・井伊直政の従兄弟であった、先祖の鈴木重好は、直政の死後、徳川家康から命じられ、家督を継いだ井伊直継の補佐に当たります。そして、1603(慶長8)年、征夷大将軍となった家康の命により、直継が西国に対する防衛拠点として彦根城を築城。その総元締めを、付家老であった重好と木俣守勝が務めました。
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