城のある風景 - 名園と一対の黒の名城
黒く塗り込められた外観から、岡山城は烏城とも呼ばれています。天守閣は、織田信長が築いた安土城の天守を模ったものとも言われてきました。安土城は、5層7重の天守と言われ、本能寺の変の後、焼失しました。もともとの姿は詳しくは知られていません。天守閣の手本とも言われていますから、もし烏城が安土城を模したものなら、その安定した姿に基本型が残されているかもしれません。
岡山城は、戦国武将の宇喜多直家が手に入れて大改修したもので、1573(天正元)年に居城としました。武田信玄が死んだ年です。山陽道も、その時に城下町を通るように改められました。
直家の子が、豊臣政権五大老の一人となった秀家で、1590(天正18)年から8年の歳月をかけて城を改築しました。旭川の流れも、本流から引き込んで、城をめぐる形に変え、川の土を積み上げて本丸を築き、烏城もその時に雄姿を現しました。
ですが、このユニークな天守閣を造った秀家は、関ケ原の合戦で豊臣側となって敗れ、八丈島に流されてしまいます。
代わって、烏城には小早川秀秋が入り、その後、1603(慶長8)年、江戸幕府が開かれた年に、池田氏が岡山藩の城主となりました。姫路城を築いた池田氏の流れです。岡山城の月見櫓は、姫路城のイメージを生かしてつくられたといいます。
更に1632(寛永9)年、池田光政が鳥取から入って、岡山31万5000石を治めることになります。岡山城は、それから明治維新まで池田氏の居城となり、天守閣もそのまま残りましたが、1945(昭和20)年の空襲で焼失、今のものは鉄筋コンクリートで復元したものです。
城から、旭川にかかった月見橋を渡れば、天下の名園・後楽園があります。昔は、天守閣の下から舟で渡ったそうです。城と名園が一対になって、岡山の心の豊かさを伝えているかのようです。
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