城のある風景 - 加賀百万石初期の苦悩
加賀の地は、かつて「百姓ノ持夕ル国」として知られた一向宗門徒の拠点でした。加賀の門徒組織は、1488(長亨2)年に守護を倒して自治政権をつくり、それから90余年も勢力を保ちました。
1546(天文15)年、門徒組織の法城として金沢御堂が完成、そこは御山とも呼ばれて、北陸一帯の組織の中核となりました。
中世的な体制を破っていった織田信長は、一向宗門徒組織とも激しく対立し、各地で一向一揆の鎮圧に乗り出し、金沢御堂もまた織田方の柴田勝家の猛攻にさらされました。1580(天正8)年、金沢御堂は激戦の果てに陥落、佐久間盛政が、この仏法の法城に入りました。
門徒組織の真っただ中に乗り込んだ盛政は、直ちに土塁を築き、堀をうがち、「御山」を「尾山」と改めて城の名としました。更に3年後、前田利家がこの地に入り、加賀百万石の祖となりました。
利家は、一揆鎮圧にも腕をふるい、門徒をはりつけや釜ゆでにしたといいますから、彼にとっても、この地は敵地でした。城は、かつての御山の面影を留めぬほどに改築されねばなりませんでした。
城は、浅野川と犀川に挟まれた小立野台地の突端にありましたが、城の向きが北北東に変えられ、今の河北門が正門に改められました。1610(慶長15)年には、内堀や外堀も完成しました。
その後、金沢城は火事に遭いますが、裏門にあたる石川門は、1788(天明8)年に再建され、4〜7mmの鉛瓦で葺かれました。鉛瓦が使われたのは、いざという時に溶かして弾丸にするためでした。
加賀を治めた前田氏は、幕府にとっては目障りな外様の大大名でした。領民は門徒の恨みひきずり、油断ならず、城が安穏であったのは、3代藩主から後のことだったといいます。
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