城のある風景 - 地蔵仏の慈悲心秘めて430余年

奈良盆地北部にある大和郡山市は、郡山金魚の養殖で知られた土地で、その始まりは、郡山城を居城とした柳沢吉里の治世の頃だったと言われています。吉里は、元禄の頃に権勢を振るった柳沢吉保の子で、1724(亨保9)年、甲斐・府中からこの地へ移封となりました。

郡山城跡のある丘陵地帯は、中世の頃、郡山衆と呼ばれた武士団の居館がありました。城らしい形を整え出すのは、1580(天正8)年頃からで、その年の11月、筒井順慶が、織田信長からこの地を与えられました。

順慶は、翌1581年から築城を開始しましたが、次の年、信長は、明智光秀に討たれてしまいます。順慶に信長を紹介したのは光秀でしたから、順慶の立場は微妙なものになりました。

しかし、順慶は光秀の出陣要請にも動かず、籠城を続けました。ところが、後にどう間違ったのか、洞ケ峠に出陣して光秀と秀吉の戦いぶりを日和見していたことにされます。実際は、慎重派だったに過ぎない彼は、秀吉から大和一国を安堵されてからも築城を続け、天守も造ったと言われますが、本能寺の変から2年後、28歳の若さで世を去ります。

筒井氏に代わって郡山城に入ったのが、秀吉の異父弟・秀長でした。秀長は、1585(天正13)年、秀吉の名代として四国を征伐。その功によって大和を所領に加え、100万石の太守となりました。

このため、城はそれにふさわしく増築されることになり、奈良中から築城用の石が集められました。家ごとに小石が20荷、寺からは、庭石、五輪塔、地蔵仏までかき集められました。天守台北側裾の「逆地蔵」はその時のもので、1523(大永3)年の銘があります。その頃の戦乱の犠牲者を慰めるための、地蔵仏だったのでしょうか。

柳沢氏が城に入ったのは、秀長の築城から140年後のこと。郡山金魚は、あるいは耐えに耐えて地蔵に祈った、この地のご先祖の恵みだったのかもしれません。

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